大修館「英語教育」97.4月号 英語教育ネットワーク通信

学びあう共同体の形成 (3)


注:以下の原稿は『英語教育』掲載時と同一ではありません。掲載時に字数制限の都合で削除した部分を補うなどの差異があります。


 中部大学では95年夏に語学教育専用にWWWサーバー機を導入して試行錯誤で運営してきた。学内向けのサービス提供だけでなく、いくつかの学会のホームページも置いていただいている。授業のためのWWWページも作成している。今年度は、さらに学習者が学習のプロセスと成果をリアルタイムに共有しながらそれをつぎの学習への足がかりにしていくというしかけを作成し実践を進めていきたいと計画している。

 自分自身がWWWサーバーを運営しさまざまなページを作っていくことは、私自身にとって情報の意味を考え直す大きなきっかけとなった。情報をいつでもどんなものでも速やかに公開できるという自由が自分にあると同時に、その情報をいつ取得しどう利用するかは利用者にゆだねられているということを再認識させられた。学生は授業用のWWWページのどこかを任意の場所で任意の時間に見て課題への回答を送ってきたり質問のメールを送ってくる。教授と学習がいったん峻別され、その間を教師と学生という社会的役割ではなくてコミュニケーションが取り持っているということを実感する。クラス編成や単位制度が学習の足枷になっていることを感じ、イリイチの、「学校」というしかけは教育的ではないという指摘をかみしめさせられる。

 個人がWWWページを持つことはかなり容易になってきている。所属機関がサービスを提供していなくても民間のプロバイダと契約すれば月額1,000円程度で開設できる。ページの作成を助けるツールも各種出回ってきた。WWWページの作成はワープロを使う程度の作業となってきている。パソコンでWWWサーバーを設定することも可能になってきている。ネットワークに接続されたパソコンならその場でWWWサーバーとして動作する機能がOSに組み込まれてしまう日もごく近いだろう。教師と学生という役割を、情報提供者とそれを利用して学ぶ学習者という立場に置き換える経験をしていただきたい。

 アラン・ケイは、教師はいまだに紀元1300年の印刷術が発明される以前の教育方法にしがみついている、「本」というメディアを本当の意味でカリキュラムに取り込んでいない、と指摘している。これは、「テキスト」を授業で使うという意味ではなく、学習者が図書館で自由に学ぶということだ。学習者が自由な情報利用を通じて学習することを実現するのは、学校というしかけではそれほどに難しい。

 学ぶことと教えることのすべてが社会的役割(教師と生徒)と社会的なしかけ(学校や受験)から離れてしまうということは現実には起こらないだろう。しかし、人間の社会が情報社会である、つまり学びあう共同体であるということに大勢の人が気がついてくるにつれて(インターネットの普及はこれを加速するだろう)、日本の学校教育、特に外国語教育・言語教育も意義と方法論を問い直されている。

 日本の学校での言語教育はコミュニケーションを教えられるのだろうか。

 他者を排した均質な社会ではコミュニケーションの重要性を理解するのは難しい。コミュニティを形成する努力を個人がしなければならない状況で初めてコミュニケーションはその力を発揮するわけだ。そういう意味で均質性を重視する日本の学校ではコミュニケーション教育を行うことは本来無理なことなのかもしれない。お互いに差異がないと信じきっているものどうしで、あるいは差異があるから排除しあってしまっているものどうしで、違いを認めあいつつ共通点を模索するコミュニケーションをすることは難しい。自分のことばでならともかく、他人の言葉(英語、教科書的日本語)でそれをする意思を持ち続けられるだろうか。

 学校の外へのチャンネルを常に開いていることはコミュニケーション教育にとって最低限必要な環境と考えなければならない。そのチャンネルとは図書館であろうし学校外での活動であろうし学校外からの来訪者であろうしインターネットでもあるだろう。未知の人・もの・情報と出会うこと、そこにコミュニケーション・リテラシーを学習する動機も教材も存在する。この当たり前のことが日本の学校で実現できていない。もっとわかりやすくいえば、たとえば、図書館で好きな本を読んでその感想を著者に書き送ったり発表することが当たり前に言語教育の中で行われなければならない。

 学校にインターネットが入ってくることで学校教育の様々な問題が再度明らかになってきた。しかも、インターネット上で「学びあう共同体」が形成されてくることで学校の「学びの場」としての位置づけすら危ぶまれている。教師が学習活動の媒介者として学びあう共同体形成に関わることができるのか、より広い学習活動から隔離された場としての学校に閉じこもる道を選ぶのか、差し迫った問題となってきた。外国語教師や国語教師にとっては、学習者にコミュニケーションができる場面を提供し(皮肉っぽくいえば、学校でも英語を使う場面を設けよということだ!町中で英語にふれたり映画やテレビで英語にふれるのと同じぐらい自然に大量に英語の授業で英語を使えということだ!)、コミュニケーション・リテラシーの習得に必要なあらゆる資源を提供する努力をする(すべてを教師の口から教えよという意味ではない)ことが求められている。 英語教育、国語教育等々の教える側の縄張りから抜け出して、学習者が世界とコミュニケーション しそこから学びとり教えあっていくというサイクルを 手助けするという役割から言語教育に関わる教師の仕 事は何か定義し直す時期に来ていると思う。

【参考文献】 アラン・ケイ「教育技術における学習と教育の対立」(鶴岡雄二翻訳・浜野保樹監修『アラン・ケイ』アスキー出版局.1992.)

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(中部大学助教授 尾関修治)