「私情協ジャーナル」特集「ネットワークと倫理」原稿

インターネットを利用した教育の現場から

尾関 修治(おぜき しゅうじ;中部大学国際関係学部)

 中部大学では94年から語学教育(日本語教育を含む)にコンピュータ・ネットワーク(学内LANとインターネット)の利用を導入してきた。現在に至るまで試行錯誤の連続であり、システムのトラブルはもとより対人的トラブルも数々経験してきた。

 本稿では、はじめに語学教育でなぜインターネットが利用されているか現状を簡単に説明する。次に「倫理」に関わる問題を対人的問題と拡大解釈し、インターネットの教育利用の中で経験した対人的トラブルで比較的一般的と思われるものを取り上げて紹介したい。最後に、経験をふまえてインターネット時代の教育について若干の提案をしたい。  

1.語学教育でインターネットを利用する意味

   語学教育にインターネットを利用する試みは日本では93年頃から始まり、ネットワーク環境の普及とともに急速に広がってきた。活字化された文献こそまだ少ないものの、関連する各種のメーリングリストも筆者が参加しているものだけでも国内外9つあり、WWW上での情報提供も活発である。おそらく英語教育やその他の語学教育は今もっともインターネットの教育利用に熱心な分野といってもいいのではないだろうか。

 内容も、当初はクラス単位で海外のクラスと電子メールの交換をするという異文化理解のための交流活動が中心であったが、その後学習者相互の日常的な電子メール交換、ニュースグループによる議論、MOO(仮想空間)を利用したチャット、ホームページ作成などと、日常的コミュニケーションと発信を主眼とした教育実践が次々に始まり、広まりつつある。

 語学教育でインターネットを利用する最大の理由は、「いつか使うかもしれない表現の暗記」から脱して、生身の相手と自分の意志でコミュニケーションする機会がインターネットでは容易に得られることである。分かり切ったことを教師相手に話すことでもなく、読者のいない英文を書いて文法的正確さを競うのでもなく、自分とは異なる世界で生きている、生活や考え方・経験の異なる相手と出会い、そのギャップを埋めるためにコミュニケーションをする、それに必要な言語が学習対象となっている外国語であるという必然性をともなった環境が教授者と学習者の両方を引きつけている。

 語学学習環境としてのインターネットの効果的な利用のためには、学習者が主体的に出会いや誤解・相互理解を経験し、その過程で言語を使用し、必要な場合には教授者の適切な指導が受けられることが重要である。学習者の直接的なコミュニケーション体験を重視するだけに、インターネット利用の語学教育では学習者が対人的トラブルを経験することもあり得ることで、教授者がそのようなトラブルに対してどのような姿勢をとるかが教育実践の成否にも関わってくる。  

2.インターネット利用教育の現場で起きている問題と対処

以下で筆者が94年以降ネットワーク利用教育で体験した対人的トラブルとそれへの対処の一部を紹介する。

事例1:ネチケット違反

学生がメーリングリストやネットニュースを利用していると、様々な形でいわゆる「ネチケット」に反するメッセージが流される。私信をメーリングリストに流す、メーリングリストへの登録コマンドを登録用アドレスにでなく発言用のアドレスに流す、不必要に長々と相手のメッセージを引用した返事を書く、など。こういったメッセージは主に初心者によって発せられる。そこから口論が引き起こされることもある。さらに放置しておくと、教育用のメーリングリストやネットニュースでは、そのようなトラブルに嫌気がさして参加しなくなってしまったり、他人の書いたものを読まなくなってしまったりという問題も発生している。

 最近は学部1、2年の学生の中にも既にネットワークの経験のある学生が多くなっている。授業でのネットワーク利用の際には学生が自由に発言できるメーリングリストを利用し、全員が参加するよう促すと、短期間のうちに初心者も経験豊富な学生や教員の書き方をまねて「ネチケット」にあった書き方ができるようになる。学生がインターネット上、つまり学外でのメーリングリストやネットニュースに参加する前に、授業という枠でくくられた内輪のメーリングリストを経験しておくと効果がある。

 また、書きかけのメッセージを送信してしまったり宛先を誤って送信してしまうのは、電子メールやネットニュースの読み書きに不慣れなことも原因となっている。使いやすいソフト・環境を提供することもネチケット違反を防ぐのに効果がある。

事例2:偽名電子メール

学生が授業用に利用しているメーリングリストに外部から不真面目なメッセージが投稿された。投稿元のアドレスはその授業に関わっていない学生のものであった。教員や他の学生からそのアドレスへ抗議の電子メールが即座に送られたが、しばらくして、メッセージを投稿したのはアドレスの持ち主ではない他の人物で、そのアドレスを偽って利用したことがわかった。ネットワーク管理者たちが半日間連携を取り合ってログなどを調べ、どこの端末からいつ発信されたかが突き止められた。その情報をもとに、他の学生たちの証言から、偽名電子メールを発信した学生は誰かほぼ特定することができた。

 その後管理者や学生たちの間でその処分が取りざたされたが、最終的に大学側は利用者全体に事件の経緯を説明し警告する張り紙を掲示するという処置にとどまった。  最近の電子メール送受信ソフトには必ずしも利用者のパスワードを知らなくても偽名電子メールを発信することが容易になっているものがある。問題の学生はもう少し手の込んだ偽装工作をしていたが、単純な偽名電子メールなら一般的な利用者でも発信可能だろう。電子メールの匿名性を考えると、毎日の膨大な数の電子メールの中で偽名電子メールがほとんどないことはむしろ驚くべきことかもしれない。

 この偽名電子メールを発信した学生に対して、ネットワークを毎日利用している他の学生たちは自分たちのコミュニティが侵害されたと感じたようであり、「退学処分にすべき」などの激しい抗議の声が聞かれたことが印象的だった。

 この事例の場合、問題の学生は直接処分を受けたわけではないが、偽名でのメッセージ発信を繰り返すこともなく、また同種の事件もその後聞いていない。管理者たちの迅速な対応と他の学生たちの怒りの声が功を奏したようである。

事例3:英文電子メールでの誹謗中傷

英語の授業で学生たちは授業用メーリングリストを利用して課題の他に日常のさまざまなことがらを英文で書きあっている。教員がコメントするだけでなく学生同士もコメントしあっている。話題が盛り上がってくると、学生たちは授業時間だけでなく暇を見つけては自習室の端末を使って英文でやりとりをするようになる。他愛のないやりとりを嬉々として英文で送り合っている姿を見ると教員としてほくそ笑まずにはいられない。

 しかし、時としてその英文に乱暴な表現が出てきて驚かされることもある。特に音楽の趣味などについてのやりとりの際に相手の趣味をけなし、罵倒さえするような表現が現れる。あわててたしなめるメールをこちらも書くのだが、聞いてみると本人同士は顔見知りで、冗談のつもりで書き合っているということがある。そうはいっても"Kill you!"などの表現は第3者から見ると冗談とは読めない。

 これは学生の英語の表現力の制約から来るもので、悪意なく上手に相手を「からかう」英語が書けないために直接的で暴力的な表現になってしまうようだ。顔見知り同士のうちはかまわないが、コミュニケーションの範囲を広げていけば大きなトラブルに直結しかねない。英語教育の中で、肯定的・協調的な表現だけでなく、からかい方、クレームの付け方、抗議の仕方、けんかの仕方まで教えていかなければならないと思っている。もちろん従来の英語教育の中でもこのような英語力を養うことはコミュニケーション能力養成の一端として必要だったはずだが、学生同士が「教科書」によらずに主体的に英語を使用する場面が教育現場で多くなかったので表面化してこなかった課題である。  

事例4:民族・文化的摩擦

中部大学語学センターでは日本語教育用のメーリングリストをサポートしている。日本語教員が中心となって、中部大学で日本語を学んでいる留学生、日本語を学んでいる米国人教員、海外の大学の日本語学習者、日本人ボランティア、日本語教授法を履修している日本人学生などが参加し、電子メールを利用してお国自慢や日常の話題などを日本語でやりとりしている。日本語学習者にとって日本語と日本の文化を学ぶだけでなく、日頃接触することの少ない留学生と日本人学生が交流する貴重な場となっている。

 1995年の夏、一人の日本人学生が終戦記念日にちなんで終戦直後の日本の状況について在日韓国人・朝鮮人を侮辱しかねない内容のメッセージを書いた。史料から学んだというよりはおそらく家族などからの伝聞によって形成された誤解で、それが学校教育を通じて修正されることなく大学生にまでなってしまったものと思われた。韓国からの留学生も読んでいるはずなので、早急に対応する必要があった。

 教授者が対応する前に一人の日本人ボランティアが長文のメッセージを書き、侮辱的なメッセージを書いた学生をたしなめた。さらに日本と朝鮮半島との間の歴史について自分の理解している範囲で説明し、日本人の歴史認識にもバリエーションがあることを示した。これによって決定的な誤解や対立は避けられた。

 このような文化的・歴史的な誤解、土着的知識に基づく民族的偏見、歴史を背景とした悪感情による摩擦は、異文化を担った個人同士が個人の立場で接触するインターネットの世界では容易に起こりうる。筆者自身も、CU-SeeMe(映像・音声をともなう電子会議システム)で公開リフレクタに接続した際に見知らぬオーストラリア人に延々と日本人に対する考えうるあらゆる侮辱・罵倒のことばを浴びせられたことがある。

 学生はある程度普遍性のある歴史観・文化観を教育やメディアを通じて身につけてきているはずなのだが、実際には土着的な偏見がそれを上回っていることが驚くほど多い。これはインターネットの有無に関わらず存在する問題であって、これまでただ教育の場では表面化しにくかっただけのようだ。インターネットが文化摩擦を広げているわけではない。潜在的に摩擦が起きる可能性があったが、インターネットの普及によって加速され、顕在化してきているのである。

 これまでの教育がどれだけ普遍的な歴史観・文化観に基づいて行われてきているのか、はからずもインターネットという場で明らかにされつつある。文化や民族のバリエーション、歴史観の違いを、こんなものもあるという知識として教えるのではなく、すぐにでも接触し理解しあう努力をする可能性のある対象として教えていかなければならなくなっている。

3.提案

これらの経験を経て、学内ネットワーク、インターネットを利用して教育を行い、その中で深刻な対人的なトラブルを防ぐには以下の点に留意すべきだと考えている:
  1. 学生が主体的にネットワークを利用できる環境・ツールを提供する。
  2. 情報を利用するだけでなく発信・共有することに早期から慣れさせる。
  3. トラブルが発生したら迅速に対応する。
  4. 円滑なコミュニケーションに必要な知識と技術を習得させる。
 インターネットはあらゆる意味でボーダーレスである。コンピュータ資源・ネットワーク資源に由来する制約はともかく、大学ごとの恣意的な倫理的規範を定めそれを盲目的に遵守することを求めても、インターネットを利用する学生の目には無意味なものと映ってしまう恐れもある。むしろ自分がその中に生き仲間を見つけることができるコミュニティという自覚を持たせることによって規範を作らせるほうが望ましいのではないか。クラス内・学内のメーリングリストやローカルのニュースグループを自由に利用させたり、共同作業でwebページを作成することによって、ネットワークが血の通った人間で作られ、その中には自律的な規範が必要であることを早い段階で実感させたい。

 また、トラブルが発生した場合には迅速に対応し、誤解や口論が拡大するのを防ぐべきである。対応が迅速で被害が小さければ、むしろ教育的効果さえ期待できる。そのとき対応するのは必ずしも教授者である必要もない。学習者が自分たちのコミュニティでのトラブルの拡大を防ぐためにそのコミュニケーション能力を活用できれば最良であろう。

 自由に利用させ経験によって学ばせる一方で、自分の考えや感情を表現することができる言語能力(英語力)、より普遍的な歴史観・人間観、また本稿ではふれなかったが著作権に関する知識など、地球レベルでのコミュニケーションに必要な知識と技術を学生が習得することも必要になっている。これは大学で、あるいは大学以前の基礎教育で必要なことである。「国際人」を養成する、と広告に掲げる大学・学部も増えてきているが、本当の意味での「国際人」(英語の達者な非常識な人間ではなく)が育っていくためには具体的に何と何と何を学ばなければならないかという課題も、インターネットを利用した教育の場で明らかになってきている。  

参考文献


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